安藤優子さん 特別インタビュー【第3回】

生放送を担当しつつ大学院へ…社会党の研究から女性議員・候補者に対する内外の「認識」に直面




母校の大学院に通うことを決意した安藤優子さん。生放送の帯番組でキャスターを務めながら、研究に取り組む日々がはじまった。博士論文のテーマは「日本はなぜ、女性の国会議員がこんなに少ないのか?」。すると、働く中で抱え続けてきた自分自身の「モヤモヤ」に対峙することになった。


――仕事は順調だったのに、どうしてわざわざ大学院に行くことにしたんですか?



カッコよく言えば、「芯を食った仕事がしたい」と思ったんですよ。私、目の前で起きていることを言葉にする「現場実況」は得意なんです。でも、そのできごとを俯瞰で見て、歴史的な背景とか、今後にどうつながっていくのかを線で結ぶ知見や知識が、圧倒的に足りていないというコンプレックスみたいなものがずっとあったんです。

――「コンプレックス」ですか?

政治や経済、安全保障についてのニュースを毎日伝えていて、取材を通じて政治家と知り合い、話す機会も増えていきました。ところが、こんなに世の中のコアな部分の近くにいるにもかかわらず、自分自身は衛星のように、周りをクルクル回っているだけのようなもどかしさがあった。これはいよいよ、ちゃんと勉強しなきゃダメだなとなって、修士課程に飛び込みました。


――入るのも大変だったのではないでしょうか?

試験があって、英語と数学が一定のレベルに達していないとダメなんです。英語はなんとかなるけど、問題は数学ですよ! 東大卒のディレクターさんとか捕まえて「ちょっと、これどうやるの!」って教えてもらったりして、1年くらい必死で勉強しました。


母校の上智大学大学院に合格したのが、2005年。当時、フジテレビの夕方の帯番組「FNNスーパーニュース」のメインキャスターだった。


――毎日、生放送をやりながら大学院に行ったんですか!?

そう。専攻は政治学だったんですが、授業はいっぱいあるし、論文も定期的に書かないといけないし、しかも使われるのは全部英語なんです。学生同士の議論も、読まなければならない大量の論文も英語。夕方のニュースが終わったら、大学の図書館や先生の研究室に行って勉強していました。毎日、泣きそうでした。

――それはどんなにか大変でしたよね?

これは後で聞いたことですが、私が大学院を受けたとき、試験は合格ラインに達していたものの、教授会の先生方はほぼ全会一致で「絶対、途中で投げ出すから通さない方がいい」という見解だったらしいんですよ。ただひとり、後に私の博士論文の主査をしてくれた先生だけが「やってみなくちゃわかんない」と後押ししてくれたそうです。結局、毎回一番前の席で授業を受けて、取材以外では1日も休みませんでした。


そうしてはじめに手掛けたのが、社会党の研究だった。史上はじめて女性党首になり、マドンナ旋風を起こした土井たか子氏を取材。その後は小泉政権に関する論文で修士号を取った。そこで終わりにするはずだったが、担当教授に勧められ、博士課程に進むことに。選んだ研究テーマが、「日本はなぜ、女性の国会議員がこんなに少ないのか?」だった。


――どうして、このテーマを選んだのですか?

取材をしているときから常に気になっていたからです。
社会ではこれだけ男女平等とかジェンダーとか言われているのに、その先頭に立って引っ張っていくべき当の国会で、女性が増えないのは一体どうしてなのか。
もうひとつは、私自身が、男性が圧倒的多数の環境でずっとやってきて、自分の働き方にものすごく反省を感じていたからです。



――どういうことでしょう?

取材に出るようになった最初の頃、現場に行くと、いるのはみんな「おじさん記者」でした。おじさんたちは一生懸命に報道という牙城を築き上げて、彼らだけの、いわゆる「ボーイズクラブ」を作って守っていました。そこに入って行った私は、彼らにとって「宇宙人」です。それでも、うまくやっていかないといけない。経験も知識もない中でとった作戦が「ペット化」でした。

――「ペット化」ですか?

「ここではかわいがられてナンボだ」と、当時の私は本能で察知したんでしょうね。ボーイズクラブのルールに抵触しないように、「従属」することを選んだわけです。波風を立てるより、その方が楽だから。

――実際にはどんな行動をしていましたか?

おつかいを頼まれたら、「ハイ!」と元気よく返事をして、ダッシュでパン屋さんに走りました。気配りができるところを見せようと、飲みものまで買って帰り、「安藤くん、案外気が利くね~」なんて褒められて、尾尻を振っていたんです。その後、そこそこの仕事をするようになると、今度は「同化」です。自らボーイズクラブの仲間にしてもらった。原色のスーツもアクセサリーも捨てて、戦争でも災害でも難民キャンプでも、どこにでも飛んでいきました。矛盾するようですが、女性性を封印することで「女でもできる」ことを証明しようとしていたんだと思います。私はこれを後に「おじさん化」と名付けました。

――「おじさん化」ですか!?

この世界に入ったばかりの頃は、プライベートに踏み込まれることに拒否感があって、仕事関係の人たちとは絶対飲みに行かなかった。でも、そこも「なあなあ」になっていきました。「おじさん化」しているので、新橋のガード下の赤ちょうちんだって喜んで行きました。肩を組んでお酒を酌み交わし、「いやー、これで安藤くんも我々の仲間だね」なんて言われて、「そうだ、女でもできるんだ!」って、自分に言い聞かせていました。

――でも、本当は違った。

ずっとモヤモヤしていたんです。うまく言葉にできない、しいて言えば「生きづらさ」みたいなものがいつもありました。「これでいい」と本当に思ったことなんかなかった。赤ちょうちんで「仲間だね」って言われた時も「仲間か……」って、内心複雑だったんです。当時は目の前の仕事に必死で、その感情が何なのか考える余裕もなかったけど、あとで自分の行動様態を振り返って「ああ、私、そうだったんだな」って。

――なるほど。

そこに気付いたとき、私はすごくいびつな働き方をしていたんじゃないかと思ったんですよ。女性性を封印しておじさん化するのは、自分の自然な姿を否定することです。ペットになって「女らしく」「従順に」しっぽを振って見せるのも、本来の自分を貶めることです。自分を含むすべての女性へのリスペクトを欠く働き方だったと思いました。

――でも当時は、そうするしかなかったのではないでしょうか?

そうですね。自分の居場所をこじ開けるためにはそうするしかなかった。ペット化も、おじさん化も、何とか生き残るための生存戦略、サバイバルの知恵だったんだと思います。でも、これから社会に出て働く女の人たちには、自分と同じような働き方はしてほしくないって思いました。



こうして博士論文に取りかったものの、研究は難航したと言う。


なぜ女性の国会議員が増えないのか? を探るために制度面を見ると、日本はすでに整っているんですよ。被選挙権は男女平等にある。男女の候補者の数が均等になることを目指す法律も成立した。「女性の候補者を増やすな」とは誰ひとりとして言っていないわけです。それなのに、諸外国と比べて女性の割合が著しく低い。そうすると、問題の根っこは制度以外のところにあるんじゃないかと思いました。

――どこにあるのでしょう?

「認識」です。女性の議員や、女性候補者に対するまなざし、注がれる視線に何か要因があるのではないか。事実、取材する中で私は、自民党の議員らから驚くような発言を何度も聞いていました。「女はどうせ札にならない(票が集まらない)」「同じ選挙区に男と女がいたら、絶対に男を公認する」――。どんなに制度が整っても、運用する側の認識がそれに逆行しているんです。せっかくの制度が「絵に描いた餅」になっている。


2018年5月、紆余曲折の末に成立した「政治分野における男女共同参画推進法」。当初の法案では、候補者数は男女「同数」にすべきとされていたが、自民党内から異論が出て、「均等」という言葉に落ち着いた。「同数」ならば数をイコールにしなければならないが、「均等」ならば幅を持たせられるというのがその理由だ。しかも、罰則が伴わない「理念法」。迎えた翌年の参院選では、自民党の候補者82人のうち、女性はたった12人で、「均等」にさえ程遠かった。


でも「認識」って目に見えないし、すごくあいまいなんですよ。彼らのそういう考え方が、一体いつ、どこからやって来たのかを可視化したいと考えました。

図書館の奥にある書庫にこもり、片っ端から文献を探す日々が始まった。

書庫って、窓がなくて真っ暗なんですよ。そこでひたすら探して、読んでました。方向性が見えずに、書庫でうずくまってしまった事もあります。

そんなある日、安藤さんはその書庫で「大発見」をする。1979年に出版された、自民党の「研究叢書」だ。

見つけた瞬間「これだっ!」って、思いました。とても興奮しましたよ。そこには、自民党が、女性に対して向けてきた視線の源流とでもいうべきものが書かれていたんです。


研究のカギを握る書物を発見した安藤さん。自分自身をはじめ、多くの女性が抱えてきた「生きづらさ」の正体を突き止めていく。


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