安藤優子さん 特別インタビュー【第1回】

キャスター安藤優子「アルバイト中のある出会いがきっかけでテレビの世界へ」そこで目の当たりにした“男性主体の風潮”






報道番組のキャスターとして、40年にわたり、生放送でニュースを伝え続けた安藤優子さん(66)。
大学院での研究を経て、現在は大学で教べんをとりながら、各地を飛び回っている。女性のキャスターがほかにいなかった時代から、どんな歴史を目撃し、どのように道を切り拓いてきたのか。いまなぜジェンダーについて研究し、どんなことを発信しようとしているのかを聞いた。

第1回は、安藤さんがテレビの世界に入ることになったいきさつと、そこで目にした業界のありようについて。
キャスターを志すつもりは一切なかったという20代の安藤さんを待ち受けていたのは、戸惑いの連続と、理不尽で過酷な日々だった。


――昭和から平成を生きてきた世代にとって、安藤さんといえば「一日一度は、ニュース番組でお顔を見る人」でした。そもそもテレビの世界に入ったのはどういうきっかけだったんでしょうか?

上智大学に通っていた大学生の頃、渋谷のパルコで、エレベーターガールのアルバイトをしていたんですよ。そのとき、番組のディレクターさんに声をかけられたんです。確か1979年のことだったと思うんですが。私は高校時代にアメリカに留学した経験があって、その時、エレベーターの中で外国人のお客さんに英語で何か説明していたんです。ディレクターさんは英語を話せる若い人を探していて、声をかけてきたんですね。

――昭和から平成を生きてきた世代にとって、安藤さんといえば「一日一度は、ニュース番組でお顔を見る人」でした。そもそもテレビの世界に入ったのはどういうきっかけだったんでしょうか?

上智大学に通っていた大学生の頃、渋谷のパルコで、エレベーターガールのアルバイトをしていたんですよ。そのとき、番組のディレクターさんに声をかけられたんです。確か1979年のことだったと思うんですが。私は高校時代にアメリカに留学した経験があって、その時、エレベーターの中で外国人のお客さんに英語で何か説明していたんです。ディレクターさんは英語を話せる若い人を探していて、声をかけてきたんですね。

――なんと言って声をかけられたんでしょう。

「テレビ番組のレポーターを探しているんだけどやってみないか」って。私はずっと、ホテルのマネージャーになりたくて、ホテル経営学部があるアメリカの大学に留学するため、アルバイトで留学費用を一生懸命稼いでいたんですよ。当時、パルコの日給が4500円。その番組でリポーターをやれば、1回5000円くれると言う。そこで、その人に連れられてオーディションを受けに行ったというわけなんです。

――すると、報道やテレビに興味があって、この世界に入ったわけではないんですか?

全然ですよ! 当時は新聞なんか1面から読んだこともなかったし、見るのは一番うしろのテレビ欄くらい。政治にも興味ないし、友達とのテニスとか、おいしいもの食べることとか、ボーイフレンドの動向とか、そういう方がずっと大事だった。その年ごろって、そんなもんでしょう? テレビに出ようなんて微塵(みじん)も思ったことがなかったし。だいたい、レポーターとか記者とか、いわゆるジャーナリズムって(笑) そういうの、自分とはまったく関係ない世界のことだと思ってた。


ひょんなことからテレビの世界に足を踏み入れることになった安藤さん。はじめに携わったのは、テレビ朝日の「世界にとぶ」という番組だった。

アメリカの西海岸から東海岸まで、長距離バスに乗って1カ月くらいかけて横断するっていう、今考えたらムチャクチャな番組ですよ。途中、行き当たりばったりで、その土地の歴史とか文化についてレポートするんです。でも私、ド素人だし、何をすればいいかさっぱり分からない。英語ができて、国際免許を持っていたので、ロケ隊の運転手兼、通訳兼で、何でもやりました。そこで私、テレビのロケというものにあまり良い印象を持たなかったんです。

――どうしてですか?

だって、テレビって図々しくて、エラそうなところがあるでしょう?カメラさえあれば、どこにでもズカズカ入っていくみたいな。当時はまだナイーブな大学生だった私にとっては、そういう業界の感じがすごく鼻についてイヤだった。だから「テレビのアルバイトはこれで最後にさせてほしい」って言っていたんです。



ところが帰国すると、次が待っていた。以前のオーディションを見ていたプロデューサーが、安藤さんを新番組に抜擢したのだ。
テレビ朝日の報道番組「BIG NEWS SHOW いま世界は」。日本のスタジオとニューヨークのスタジオを中継で結び、
現地の人たちとやり取りしながらニュースを伝えるという、当時としては画期的なスタイルのニュース番組だった。


そこで「アシスタントをやれ」って言われたんですよ。でもその頃、ニュース番組のアシスタントなんて聞いたことがなかった。そもそもニュース番組を男性と女性が一緒にやるということ自体、見たことなかったですから。ニュースは基本的に、男性のワンショットでした。「女性アナウンサー」という職業の人は、いるにはいたんですが、読むのはいわゆる「柔(やわ)ネタ」だけなんですよ。天気予報とか子どもニュースとかね。

――それはどうしてでしょう?

政治経済や事件など、いわゆるニュースの“本丸”は男性の領域で「女にできるはずがない」という風潮ですよ。当時はまだ「キャスター」っていう言葉すらない時代です。「アシスタントって何をすればいいんですか?」と尋ねたら「男性MCの横で、黙ってニコニコうなずいていればいい」って言うわけです。どんな顔していいか分からなかったけど、とにかく言われた通り、本当に何も話さずに黙ってうなずいていました。そうしたら今度は、視聴者からクレームが入った。「仏頂面でかわいげがない」とか「もっと笑え」とかね。


周りにロールモデルが存在せず、どうふるまったらいいのか分からないまま、無言でうなずき続けること半年。
ようやく与えられたセリフは「それではニューヨークの○○さんを呼んでみましょう。○○さーん!」だった。


当時はスタイリストさんなんかいないから、洋服は全部自前。何を着たらいいか分からなくて相談すると「着るものなんかどうだっていいんだ。チャラチャラすんな!」って、怒号が飛んでくるんですよ。あくまでもメインは男性。私はいてもいなくてもいい添え物のような存在。以前、外国人記者クラブの講演会で当時の私自身の状況を説明するために「プラスティックフラワー」(お刺身の横についているプラスチックの菊の花)に例えたことがありました。


ところがその日は、突然やって来た。


朝、家にいたらポケベルが鳴って「きょうは組閣の日だから、自民党の金丸さんから人事の情報を取って来い」って言うんですよ。私はその頃、金丸さんって名前は知ってるけど、「なんだかおっかなそうな人だな」というイメージがあるくらいで、どういう人かも分からない。でも、そのプロデューサー曰く「政治家は若いお姉ちゃんが好きだから」と。


後に自民党の幹事長となり「政界のドン」と呼ばれることになる金丸信氏。その頃の安藤さんは知る由もなかったが、金丸氏は大のマスコミ嫌いで、誰が取材したところで談話は取れないというのが定説だった。


――初の取材はどうだったんでしょうか。

私はまだ大学生で、ハイソックスにミニスカート、ダウンジャケットといういつも通りのかっこうで金丸さんの家に行ったわけですよ。雨が降っていて、傘をさして立っていたら、金丸さんの奥さんが金丸さんに「あなた、若い女の子のファンが会いに来てるわよ」って言ったらしいんです。

勝手口から出てきたのは、ラクダの上下に女性モノのサンダルをつっかけた金丸信、その人だった。

私はマイクを向けて、単刀直入に「文部大臣、誰ですか?」「通産大臣、誰ですか?」「大蔵大臣、誰ですか?」。だって知ってる閣僚ポスト、それくらいしかないから。金丸さんは最初「誰だ。無礼な。名乗れ!」と怒ったんですが、そんな私を見ているうちに哀れになってきたんでしょうね。私があきらめて帰ろうとすると「待て。こういう日はな。政(まつりごと)をやる男たちにとって、一番心が躍る日なんだ」と、言ったんです。



日ごろ取材をしている記者たちがどんなに頑張っても胸中を語ることのなかった政界の大物が、カメラの前で、いきなり突撃した大学生に、ラクダ姿で口を開くという驚天動地。本来であればとてつもない快挙のはずだった。


みんなすごく驚いていましたよ。私も「やった。コメントがとれた!」って、達成感です。でもね、私を取材に行かせた男性プロデューサーは得意満面でこう言ったんです。「ほらな? 政治家っていうのは若いお姉ちゃんが好きなんだ」。若い女子だからできたっていうのはあまり良い感じはしませんよね。そこから、だんだん取材に出されるようになりましたが、何をやってもダメ出し。普通にしていても「チャラチャラすんな!」って怒鳴られるし、どうしていいのか分からなくて、毎日大袈裟でなく泣いてました。


1981年に中国残留孤児がはじめて来日した時には、何日にもわたって同行取材をした。

その人たちの中には、肉親に巡り会えた人もいれば、会えなかった人もいた。最後の夜、その人たちが泊っているホテルの窓を見ていたら、一部の部屋はずっと明かりがついたままでなかなか消えない。そこで私は中継で「肉親に会えた人は次のステップに進めるけど、会えなかった人は眠れない夜を過ごしているのかもしれない」というようなレポートをしたんです。そしたら、テレビで仕事するようになって以来はじめて、内容を褒められた。ところが、その褒め方が“ふるって”るんですよ。


――どんなふうに褒められたんですか?

「すごくいいレポートだったよ~。安藤くんは、着るものにしか興味がないと思ってた!」って。つまり、そういう扱いなんです。「若い女は、どうせ洋服にしか興味がないパー」というね。いまでも鮮明に覚えているのが、自民党の河本派の記者懇談会があると言うので派閥の事務所に行ったときのことです。「はい、じゃあここから女性記者は出て行って」って締め出されたんですよ。

――どうしてですか!?

当時、政治担当の記者は男性しかいなかったわけです。そこにいる人たちにとっては「政治は男性が取材するもの」なんですよ。つまり、この世に女性の政治記者がいるなんて思いもしないわけです。そこに、若い女子大生が突如現れた。いま考えれば、彼らにとって私は宇宙人みたいなもので、「なんだコイツ?」だったんでしょうね。


思いがけず足を踏み入れたテレビの世界で、男性社会のあまりに強固な牙城を目の当たりにした安藤さん。いっそ、辞めてしまってもよさそうなものだが、この後、より過酷な戦いに身を投じることになる――。



第2回に続く