安倍晋三元首相の「女性が輝く社会」政策に対する疑問と改善されない生きづらさ
「自民党の女性認識」を明らかにし、それが社会全体の女性認識を形作ってきたことを解明した安藤優子さん。私たちの社会や暮らしの様々なところに、その影響は及んでいるのだと言う。安倍晋三元首相が掲げた「女性が輝く社会」もその一つだ。
――自民党の女性認識は、具体的にはどんなところに影響を及ぼしてしていますか?
まず、自民党の女性認識を形作る政治指向を、私は「イエ中心主義」と名付けました。女性は個人として認識されず、「家に従属する存在」であり、「母親」「妻」「娘」といった役割名で呼ばれる「家の構成員」だという考え方です。
「イエ中心主義」は、研究を進める中で安藤さんが作った言葉だ。ベースには、日本社会を形成する最小のユニットは個人ではなく家族であるという自民党の価値観があると言う。
「イエ中心主義」のあらわれのひとつに、安倍さんが掲げた「女性が輝く社会」があります。「女性政策」と言いながら、これも実際のところは経済政策でした。苦しい経済状況の中で、今度は女性を労働力として市場に戻そうというのが狙いです。しかも従来通り女性に育児、家事、介護など「無償のケア」を押し付けたうえで、経済の担い手にもなってくれという話です。「輝く」などという抽象的な表現をしていますが、別に女性を個として認めたわけではない。「女性が働くことのできる社会」と言い換えるべきものなんです。
2012年12月、政権に返り咲いた安倍晋三元首相。施政方針演説で「女性が輝く社会日本を、ともに創り上げていこうではありませんか」と呼びかけ、“女性政策”が政権の柱であることを強調した。

これ、政府が「女性政策」と銘打つものの特徴なんですよ。「女性が輝く社会」とか「女性活躍」などというスローガンのもとに実施されてきたのは、結局いつも労働政策や経済政策なんです。「女性政策」と言うならば、人権政策、ジェンダー政策でなければならないのに、その視点がいつも抜け落ちている。だから打ち出すものがズレるし、いつまでたっても女性の生きづらさは改善されないんです。
――そういうことだったんですね。
そこが海外の女性政策と決定的に違うところなんです。例えばフィンランドでも、もともと女性を労働力として市場に戻すことは大命題だった。最初の入り口は経済政策でしたが、早い段階で女性の人権という視点に気付いた。日本とは方法論が全然違うんですよ。
――どのように違うんですか?
女性を労働力として市場に戻すためにはまず、女性が働きやすい環境を作る。そのためには、母として妻としてだけではなく、ひとりの女として生きられる時間を担保できる制度を作るんです。労働力として戻す以上、そのためには何をサポートしてあげるべきかっていうジェンダー政策が、経済政策とセットになっている。
フィンランド政府は、1980年代からジェンダーの問題に取り組んできた。社会生活におけるジェンダー平等の促進を目的とする法律を制定。様々な業界や組織と連携して、女性が働きやすい職場づくり、両親が交代で長い育休を取得できる制度、さらには仕事中のコーヒー休憩の権利保障まで、多くの施策を推し進めている。
かたや、経済政策だけが単体で独り歩きして、女性政策ですって仮面をかぶってきたのが日本です。だから私は「女性が輝く社会」に批判的です。「じゃあ、働かない女性は輝かないんですか?」と聞きたい。今の日本では、女性は「ママである」もしくは「労働力になっている」ことが前提になっていて、それ以外の部分は何の保障も受けられないんですよ。私の知人は、第3号被保険者の「130万円の壁」のギリギリを攻めながら、一日中パートで働き、終わったら慌てて帰って、夕方5時50にスーパーに飛び込んで買いを物し、タイムリミットの6時に子どもを迎えに行くという生活をしているそうです。
――それは過酷ですね。
女性が、ママでも労働力でもなく、ひとりの人間として自分を謳歌する時間があってもいいはずなのに、その大切さを誰も言わない。ひとりの女としてデパートふらつきたい時もあるし、温泉にでも一泊しに行きたい時もあるし、おいしいもの食べてのんびりしたいときもあるじゃないですか。なぜそういう時間や生き方を担保することをサポートしようとしないのか。私はそこが疑問なんです。あいまいな表現で経済政策を掲げるのではなく、「女性個人の人権と存在を認める社会」に意識を変えてほしいと思います。
「イエ中心主義」は、選挙にも大きな影響を及ぼしているという。
自民党の選挙対策担当者への聞き取りで分かったのは、そもそも、候補者選定に偏りがあるということです。彼らは「女は札にならない(票が集まらない)」と言います。その理由の一つは「女性の有権者は、女性候補者にむしろ厳しい目を向けるから」だそうです。それではどういう女性候補者が彼らの理想かというと「高学歴じゃなくて、女の敵にならない、つまり自分の亭主の浮気相手にならないような女性」だそうです。「女を捨てたような女性だったら、意外と候補になりうる」とも言っていました。
――それはどういう意味ですか?
つまり「個としての女」ではダメなんですよ。例えば誰かの「母」であれば、女性有権者からの反発は少ない。「女性性の封印」を要求しています。また、「女性は男性のように、24時間、政治にコミットできないので、国会議員になるのはムリ」という話もよく聞きました。
――どういうことでしょう?
男性の国会議員は、永田町で会議と夜の会合をはしごし、地元に帰れば冠婚葬祭に顔を出す「24時間体制」です。しかし「イエ中心主義」の政治指向では、女性は「家庭長」ですから、夫の世話や子育てを放り出して、男性のように働けるはずはない。そんなことを許してくれる夫がいるはずもない。それなら、同じ条件で男女の候補者がいたら「迷わず男性を選ぶ」と言うのです。
――なるほど……。
でも、考えてみてください。男性が24時間政治にコミットできるのって、誰のおかげですか。家で、女性が無償の労働を担っているからですよ。女性に「家庭長」であることを押し付けておきながら、「政治に100%コミットできる女性なら、候補者として考えてもいい」というのは明らかな矛盾ですよ。これって政治の世界だけでなく、一般社会の中でも起きていますよね? なぜか家の中のことは女性ばかりがやっている。夫は仕事100%。エラそうにしているけど、それができるのはだれのおかげですか? っていうね。

――ありますね。
しかも、ずっと家に縛られている人は、過剰な労働をしているのに、評価してくれる人は誰もいない。何しろ「無償」ですからね。お礼のひとつも言われない。やって当たり前と思われている。そういう人が仕事を始めると「社会進出」と言ったりするでしょ? それもホントはヘンな話なんですよ。本来は、家の中だって社会なんですから。無償のケアを担っている人は、社会の一員ですらないんですかと言いたい。
――確かにそうですね。
政治家が「24時間体制」でいなければならないという認識は、国政よりもむしろ地方議会で顕著です。町村議会などは地元に密着している分、陳情、冠婚葬祭、飲み会のはしごなど、土日も休みなく動かなければならない。もし女性が当選しても、子育てや仕事をしながらではとても続けられない実情があります。男性はそこから市議、県議、国政とステップアップする道があります。しかし女性がそこに進むには、すべてを犠牲にするくらいの覚悟をしないとダメなんです。国政ともなれば、選挙区の広さも集票の数もケタが違う。選挙の大変さは地方議員とは比になりませんから。
――そうなんですか。
県議まで行ったから次は国政ね、とはならない。女性の場合はそこが断絶しているんです。このような状況なので、自民党では、地盤、看板、カバンや、党とのコネクションがない女性は、たとえ志があっても、政治の門をたたくどころか、その入り口に立つことさえできなくなっているんです。
――だから、国会議員になる女性が少ないんですね。
そして、我が町から選出された国会議員を支える県連こそが、「オールドボーイズクラブ」の牙城です。ある女性国会議員から聞いた話ですが、地方選で、新しい若い女性議員を応援したら、後援会を複数つぶされたそうです。彼らの牙城を脅かすようなことを少しでもすれば、そういうことをされるんです。当選回数を重ね、内閣や党でも要職の経験がある人にも、嫌がらせをしてくる。彼女は「一体何回当選すれば、こういういじわるが終わるんだろう」って言ってました。
ところが、そのように女性を遠ざけるような姿勢と動きを見せながら、そもそも政治は、女性を都合よく利用してきたのだと、安藤さんは指摘する。
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